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パレスチナ・オリーブでは、素材の質や効能はもちろん、
誰が、どんな状況で、どういう方法で作ったものなのかといった製造背景をクリアにしています。
だから安心。だから美味しい。だから、自信を持ってオススメできる商品ばかりです。

生産者パートナーと協力し、ともに生きる
誰もが大切にされる社会を作っていきます。

パレスチナ・オリーブは、パレスチナ北部のガリラヤ地方(1948年からイスラエル領)のオリーブオイルなどの食品、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)ナーブルスのオリーブ石けん、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)イドナ村の刺繍製品を扱っています。

実際に食べて使って納得したものを輸入し、現地を訪問・交流しながら活動しています。

イベント

『パラダイス・ナウ』

アカデミー賞でも話題になったパレスチナ映画『パラダイス・ナウ』のDVD(英語字幕)が発売されたので、購入して観てみました。今年のうちに日本 でも公開される予定だそうですので(アップリンクの配給)、ストーリーの詳細には触れません。以下では、映画によって触発され、考えさせられたことを、二 点だけ感想として記しておきます。

1.「自爆攻撃」のステレオタイプ

映画は、パレスチナの西岸地区に住む二人の若者が「自爆テロリスト」にリクルートされてから、それを実行する/断念するまでの二日間のドラマです。最初に明言しておきますが、「自爆テロ」の表象としては、僕にとってはひじょうに説得的で賛同できるものでした。

パレスチナ人のイスラエルに対する自爆攻撃を語るときに、僕が重視することは、二つのステロタイプを壊すことです。一つは、「凶悪で狂信的なテロリ スト」というもの。主要メディアにおける表象はこれです。もう一つは、「純粋な抵抗の手段」というもの。パレスチナを支持・支援する人のなかにしばしば見 られ、前者のような「テロ」というレッテル貼りに対する対抗でもあります。『パラダイス・ナウ』はそのどちらにも与していなかったのがよかった。

年端もいかないパレスチナの若者が、イスラエル軍の占領による屈辱と絶望のなかで復讐願望を持つことと、実際にその若者がイスラエル側の街中で自爆 を行なうことのあいだには、いくつもの中間項があることを考える必要があります。そのなかでもっとも重大なのは、党派的組織の利害の存在です。武装組織が まだ十分な判断力もない若者をリクルートしては、自爆のコマに利用している。洗脳をし、それ以外に道はない、それこそが使命であると思い込ませ、爆発物を 身に纏わせ、標的まで辿り着くルートを確保し、送り込む。ここまでしないことには、たとえ親・兄弟を殺され「我が身を投げ打ってでも復讐を!」と誓ったと ころで、少年一人の力では何一つできません。そして、党派的論理で自爆を戦略的に利用する幹部ら自身は、絶対に自爆をしません。自爆者は圧倒的に10代が 多いことに注意が必要です。

映画『パラダイス・ナウ』は、見事なまでにリアルにそして冷徹に、この「組織」を描いていました。

こうした背後を知らずに、自爆者だけを、極悪人だ狂信者だと非難することも、あるいは崇高な抵抗者だと賛美することも、ともに現実の文脈を失った短 絡だと僕は思っていましたし、必要なときにはそういう発言をしてきました。場合によっては、それが熱いパレスチナ支援者からの反発も受け、「自分の知って いる自爆者やその家族も、みんな誇りを持ち、神に召されることを喜んでいた!」と怒られたこともありました。

そういう意味では、僕にとってはひじょうに共感できる映画でしたし、この映画を観ていただければ、僕の意見に反発をしていた人にも、今度は少しは真 意が伝わるかなぁとも思います。パレスチナ映画がアカデミー賞で話題になったというだけで、この映画は注目を浴びましたが、実はパレスチナ賛美の映画では ないどころか、パレスチナに対する(自己)批判さえも含まれている映画です。パレスチナの武装組織の抵抗運動をロマンティックに賛美している人にこそ観て もらいたい映画だと思います。

そして映画の終盤。主人公は逡巡の果てに、それでもなお自爆を実行する意志を固めます。確かに、強い個人の意志を感じさせます。しかし、そこでも再 度強調したいことは、その意志が個人にあるとしても、それを実行する手段は全面的に組織が用意する以外には、実現されることがありえないこと、その意味で はあくまで自爆は組織にとっての政治手段と化していること、これが一つ。

それから、彼の父親が「コラボレーター」(イスラエル側への協力者・密通者)として処刑されていることが、彼の内面に決定的な屈辱としてあること が、映画の途中で示唆されます。その父親との関係は、決して個人的な事情ではなく、あくまで背景に、占領地でコラボレーターを数千人単位で使い、戦略的手 法として制度化しているイスラエル軍と諜報機関があり、またコラボレーターが発覚すると「見せしめ」的に公開処刑を繰り返すパレスチナの側の武装組織があ る。主人公はそのはざまで、屈辱を払拭するために党派からの自爆要員としてのリクルートを受け入れたのであり、最後は結果として一人でも作戦遂行を決断し たわけです。

僕は、そうした組織的暴力と実行する弱い個人の関係について考えることが重要なのではないかと思います。

2.内在的/外在的な批判の視点

映画の設定のなかで、鍵となる一人の若い女性の果たす役割については、考えさせられることがいくつかありました。自爆者となる二人の青年の友人であ る彼女は、自爆という手段に対する批判的視点を持ち込む重要な役割を果たしています。自爆者となる青年に対して、自ら死ぬことの愚かさ、一般市民を巻き込 むことの誤り、他にも抵抗の手段があること、などなどを説いて、自爆を思いとどまらせようとします。

この女性が、しかし、フランス育ちでパレスチナに戻った人だという設定については、少し微妙なものを感じました。批判的視点は外部から、しかも西欧 社会(とりあえず「リベラルで民主的」ということにしておきます)からやってくる、という意図を感じさせます。このこと自体は、実際にそういうことはある ので、決して間違いではないと思います。中・長期的な欧米滞在を経て占領地に戻ってくるパレスチナ人は少なくありません。そうした人びとは、あえて困難な 故郷に戻ることを誇りに思う一方で、やはり身に付けた西欧的価値観・生活習慣と故郷における価値観・習慣とのギャップに戸惑いを覚えることも少なくないよ うです。

ともあれ、その「ギャップ」は、パレスチナ社会を冷静に客観的に眺めることを可能にし、(外在的な)批判的視点を与えてくれるかもしれない。「フランス育ち・フランス帰り」という設定は、そういうことなのかなぁと思わせられました。

ただ丁寧にパレスチナの社会内部を見たときには、批判的言説とか民主主義的理念とか人権とか、そういったものが内部に自生していないことはけっしてない。ただそれが欧米社会と同じ言語で表明されるとはかぎらないので、伝わりにくいのも確かです。

次に、なぜ「女性」でなくてはならなかったのかも気になります。男友達で親身に忠告する人がいたっていいはずです。それについては、これはハリウッ ド映画のように「男と女」の関係は映画に必須の要素などという安易な話ではなく、おそらく次のような必然性を伴う配役であったという解釈は十分にありうる と思います。それは、やはり批判的視点の確保のためです。イスラエル軍の武力に対して何らかの武力で復讐するというミリタリズムというかマッチョイズム は、とりわけ男性共同体のなかで共有されるコードです。女性に復讐願望がないとか女性は平和主義だとか言うのではありません。ただ、「力の誇示」に価値を 置くことは、共同幻想としてであれ、男社会のものです。それに対する批判的視点は、女性によってこそもたらされる、というのは一定の合理性があります。

「フランス帰りと「女性」という、二重の「外部性」は、占領下で日常化するミリタリズムへの客観的・批判的視点を確保するには格好の構図です。自爆を自明視しているかもしれないパレスチナ共同体の「外部」の目ということを制作サイドは考えたということはありうるでしょう。

その意味では、自爆攻撃批判の視点が、「フランス帰りの女性」によって示されていることには、一定の必然性を認める一方で、しかし、それがちょっと 典型的にすぎる構図のような印象を受けたのも事実です。そうではない自爆批判の内部的言説を描き出すことはできなかっただろうか、と。

第一に、これだとパレスチナ社会の内部は自己批判力が弱い、という解釈も可能です。ところが実際には、自爆に対する批判の声などいくらでもパレスチ ナのなかにあるのです。自爆者の肉親だって(肉親だからこそ)、自分の家族を政治の道具に使った武装組織を批判しています。コテコテの内部者にこそ映画の なかで批判を語らせることはできなかったのでしょうか。

第二に、男性=マッチョという共有されたコードを前提にしているとしても、それを追認する必要はないのではないか、という気がします。しかもここ数 年、パレスチナにおいて女性の自爆者も4〜5人は出ています。相対的には少ないとはいえ、なぜ女性が自爆に走ったのかということは慎重な分析を要する問題 で、さまざまな議論が出ていますので、安易に触れるわけにもいかないのですが、しかし、男社会批判を女性にやらせる、というのもまた安易な気もするので す。逆に、例えば、もし男友達に引き止められていたらどうだったろうか、と想像をしてしまいます。

これらのことは、「社会の内部を描く」という観点からすれば、若干の不満を感じなくもない点でした。

ただし、これらがけっしてこの映画の瑕疵になるとは思いません。こうした疑問を僕がいろいろ考えることができたのも、まさに映画『パラダイス・ナウ』のおかげであったことは、最後に強調しておきたいと思います。お勧めできるひじょうにいい映画だと思います。

(早尾貴紀2006.4.4)

ストーリーの紹介はこちら(ナブルス通信)。(ネタばれ注意)

投稿日:2009年04月20日(月)
この記事のURL:http://paleoli.org/?eid=29